「CALSA(カルサ)長崎トラウザーズ」の名前の由来でもご紹介しましたが、
1500年代の後半、京の都ではポルトガル文化が流行し、
その中で「軽衫(かるさ)」も主に武将たちの間で持てはやされました。
その中でも象徴的な絵がこちらです。
こちらは「醍醐寺花見屏風」(国立歴史民俗博物館所蔵)と呼ばれるのもので、
秀吉が死の晩年の慶長3年(1598)3月15日に桜の名所として知られる
京都醍醐寺にて「醍醐の花見」と呼ばれる会を催したところが描かれたものです。
絶頂期の秀吉を物語るかのように、
豊臣秀頼、北政所(ねね殿)など近親者をはじめ、諸国大名とその配下の者など、
総勢約1300名の豪華絢爛な花見の会だったと言われています。
屏風の右側に豊臣秀吉と北政所(ねね殿)、淀殿がいます。
ちょっとわかりづらいので、秀吉だけをアップしたのがこちらになります。
この時に着用されていたズボンが「軽衫(かるさ)」です。
自分の権力がいかに絶大かを世に示すこの花見の会に「軽衫(かるさ)」を
着用していたということで、いかにポルトガル文化が流行していたのかが
うかがい知れます。
ちなみにこちらが「軽衫(かるさ)」の元となる南蛮人(主にポルトガル人)が
はいていたズボン(ポルトガル語でカルサン(calção))の絵になります。
「南蛮人渡来図屏風」(三の丸尚蔵館所蔵)
今回は秀吉がどういう「軽衫(かるさ)」をはいていたのか、
皆さんにもお見せしたくて、記事を書いてみました。
ここに来てくれた方にいいことがありますように。